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1600年関が原の戦いで勝利して、1603年征夷大将軍となった徳川家康がなお脅威に感じていたのが豊臣家。豊臣恩顧の大名たちが徳川幕府に謀反を企て、秀吉唯一の嫡子秀頼を担ぎ上げて挙兵するかもしれない。さらには豊臣家はスペインと同盟を結ぶ可能性もあった。
家康は豊臣家を滅亡させる戦略を採った。しかし短兵急な戦いでそれが実現するとは考えなかった。まずは秀頼の居座る大坂城を包囲する軍事拠点としての城郭を整備していく。増改築された城は姫路・伏見・二条・伊賀上野など多数、新築された城は彦根・名古屋。これら徳川拠点の城から出撃し大坂城を陥落せしめる遠大な計画で、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」という家康の人生訓の通りの持久戦であった。
そして大坂冬の陣で大坂城の外濠は埋められ、夏の陣において大阪城は炎上陥落し、豊臣秀頼と母の茶々は自害に追い込まれる。秀頼の妻千姫は家康の孫であるため救出され、家康にとっては百点満点の結果となった。

豊臣家が滅亡した後でも、なお名古屋城は戦略的に幕府の最も重要な拠点であり、倒幕を企て西国から江戸を目指す賊軍はここ名古屋城で阻まれるはずだ。 その時は名古屋城が築城されてから256年後にやってきた。1868年戊辰戦争が始まる。京都鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長連合は錦の御旗を掲げ(賊軍ではなく朝廷が認めた官軍として)江戸に向かって倒幕の軍を進めた。いよいよ名古屋決戦かと思われた。

西之丸・御深井丸・本丸

三之丸を通り過ぎて、いよいよ西之丸の入り口、ここが名古屋城の表玄関だ。「恩賜元離宮名古屋城」とわけのわからない石碑がある。実は大正の頃、名古屋城は宮内省の管理下にあり名古屋離宮となっていたが、昭和5年に名古屋市に「下賜」された。そのためにこのような石碑があるのだが、名古屋城400年の歴史からすれば離宮時代はたったの37年。重要なことは江戸時代は尾張徳川家の城だったことだ。普通に「名古屋城」という石碑かあるいは徳川家康の銅像でも建てたほうがいい。名古屋城と市内を流れる堀川は徳川家康の戦略により築かれ名古屋市の礎となった。

正門にたどり着く。江戸時代はここに榎多門があったが、梁が低くて離宮時代に天皇の馬車が通れなかったので破却。その代わりに旧江戸城の蓮池門を移築した。

その蓮池門も第二次大戦で空爆を受け炎上。戦後、鉄筋コンクリートで再建された。コンクリートが丸見えで寒々とした気持ちになる。

手前が西南隅櫓、奥が東南隅櫓、間に本丸表門。いずれも空襲による焼失を免れた重要文化財で、たしかな風格を感じる。本丸を取り囲む多聞櫓が残っていたらさらに壮観な眺めになっていたことだろう。お客さんは中国人の割合がたいへん多い。

明治24年濃尾大震災のときに石垣とともに崩落したが、大正12年に宮内省が修復した西南隅櫓。そのため鬼瓦と花瓦に菊紋章がある。それらを含めてもっと近くから見れるようにしてほしいし、内部も公開してほしい。

石垣の雑草が見苦しい。石垣は名古屋城の重要な見せ所なので、熊本城のように懸命に手入れをしてほしい。

石垣を鑑賞しながら西之丸を通り過ぎ御深井丸へと向かう。天守と小天守を連結する橋台の屋根からは剣が何本も突き出ている。

御深井丸の最果てに建つ重要文化財の西北隅櫓。内部は公開されていない。名古屋市は何を考えて進入禁止にしているのだろうか。

御深井丸の中ほどに建つ乃木倉庫。空襲に備え本丸御殿の襖絵や天井絵の一部をここに避難して罹災を免れた。国宝を救ったこの倉庫の内部も公開すればいいと思う。

関係者以外進入禁止の茶室。

東北隅櫓跡方面。ここから先は工事中で進めない。右手の石垣の奥に東北隅櫓がかつてはあったが空襲で焼失した。堀は手入れされず「荒城の月」状態になっている。

本丸の北にある不明門。空襲で焼失したが、昭和53年再建された。写真中央の近代的な施設はエレベーターと階段。天守が再び炎上したときの脱出経路なのだろう。外観だけは復元された天守だが、これではその外観にも支障がでている。

天守に入るには小天守を通らなくてはならないが、車椅子やベビーカーはこのエレベーターで天守に入れる。正直に言うと非常に不愉快で残念な施設だ。こんな物を一度造るともう撤去できないだろう。石垣の黒い部分は名古屋城が空襲で炎上したときの焦げ跡。

焦げ跡。焼夷弾の油(ゼリー状のガソリン)がここで燃えたのだろうか。

天守への正式な入り口である小天守。戦後に鉄筋コンクリートで再建された。中には立派なトイレがあるが、このトイレから尿の臭いが漂ってきて小天守全体に充満していた。トイレで用をたした後に流さない習慣の国があると聞く。そんな国からの団体客が多いのが原因かもしれない。

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